ユダヤマネーが支配した上海
こんにちは紺野昌彦です。
現在は中国の上海に滞在しています。上海は中国でも代表的な大都市であることを皆さんもご存知でしょう。
2018年の上海の人口は約2500万人で、地下鉄での上海の通勤圏での人口は5000万人とも6000万人とも言われています。要するに軽く日本の東京首都圏を凌駕する人口規模の大都市です。
現在中国で最も人口が多いのは、公称では重慶の3000万人ですが、かつて中国でトップの上海も今では、重慶、深センに次いで3位に落ち着いています。
ただし地方からの出稼ぎ人口などを含むとひょっとするとまだ1位の座としての可能性もある魅惑の大都市だったりもします。
2008年頃は、僕も仕事関係で上海には毎月のように足を運んでいましたが、ここ数年はビジネス的な接点も薄くなり、今回の上海は実に3年ぶりくらいになります。かと言っても3年前は浙江省の義烏市に行くために、上海に立ち寄った程度でしたので、まとまった日数を上海で過ごすのは5年ぶりくらいかもしれません。
足を運ぶのが少なくなったと言えども、上海は僕の好きな都市でトップ3に入ります。
その理由は上海の持つ近代史と近代建築が多く残る景観が挙げられます。
1842年代後半から1930年代にかけて西洋の列強と呼ばれた、欧米諸国が中国利権の争奪戦をこの上海で行っており、英国租界、米国租界、フランス租界、日本租界など上海は複数の国々に分割支配されていました。
その時代の建築物が今も原型を留めて残り、ホテルやレストラン、銀行などとして活用されています。
さて租界ですが、ご存知でない方もいらっしゃるでしょうから簡単に説明すると、英国と中国、当日の清朝の間に起こったアヘン戦争で清朝が敗北をしました。そこで終戦締結で結んだ南京条約で、それまで事実上の鎖国していた清朝を開国させました。そしてそれまでの清朝の政策は、清の国民が海外への渡航をすることを禁止していたのですが、自由渡航に認めさせて(この自由渡航は名ばかりで、要するに労働力、奴隷として外に出せるようにした)上海の港を開港させ、街の支配権を領事が持つ疎開地として、体裁のよい植民地としたわけです。
同じくこの時期に香港がイギリスに租借地として植民地化されました。
当時は未開拓、未発展に近い中国が途方もないポテンシャルと富であるのを欧米諸国は知っていたのでしょう。日本の中国侵攻に国連使って、また米国の軍事的圧力を持って阻止しようとしたのはそんな背景があったのかもしれません。
僕が香港が好きなのも、このような混沌とした時代背景に翻弄されつながらも、後に経済発展する礎になったところが、何とも魅力を感じる一つでもあるからです。
このようにヨーロッパのような町並みが残るのはそんな歴史的な背景があるからなんですね。
また現在の中国は土地には個人の所有権が認められていなく、いわば全てが国の土地、政府の土地なので、一般的には定期借地で国が民間に貸す仕組みです。
このような土地管理制度の違いから、重要文化財が取り壊されることなく現在でも残っているのです。
日本も20年、30年前には明治、大正建築と呼ばれるレンガ作り、石造りのビルもたくさん残っていたのですが、民間の持ち物ということもあり、さらに実用的、利回り重視でテナント数が多く入る高層ビルに建て替えらたんですね。
さてこの西洋列強+日本に租界地として支配される事になった上海はここを基点としていろんな意味で変化が始まります。
先程の画像は外灘と呼ばれる、旧建築が並ぶ上海でも代表的なエリアですが、夜になればこのように様変わりします。
僕のfacebookを昔からフォロー頂いている皆さんは、よく上海の夜景の画像をヘッダーなどに使っていたのをご存じかもしれません。
さてこの上海をここまで発展させたのは、西洋の列強と呼ばれた国々ですが、際立つのが英国系を中心としたのユダヤ財閥でしょう。
上海の街で当時、上海キングと呼ばれた不動産王、金融王でもあったユダヤ財閥のヴィクター・サッスーンのサッスーン家の牙城が、画像にもある旧サッスーン邸です。
皆さんのよく知る銀行HSBC。香港上海銀行も南京条約後に香港と上海に開設された中国での利益拡大と開発のために創設された銀行ですが、上海キングのサッスーンも14名の発起人の1人でした。このサッスーンファミリーとロスチャイルドが後に拡大させて行きました。なので香港上海銀行。イコールHSBCです。
サッスーン家はロスチャイルドとの婚姻を重ねて結合し相当の実力を持つユダヤロビーでした。
貿易港の神戸の外国人居留地にも観光名所としてサッスーン邸というのがあるのをご存じでしょうか、これも同じサッスーンファミリーですね。
ちなみに前述のアヘン戦争はこのサッスーンが自分達の既得権益を拡大するために、暗躍して仕掛けたりもしています。それだけ世間に、経済に、政治に大きな影響力を持っていたのでしょうね。
このような権謀術数が繰り広げられた歴史を持つ都市だから魅力されるのかもしれません。
そんな旧サッスーンハウスも現在では、和平ホテルとして、この外灘地区では最もラグジュアリーな旧建築ホテルとして名高く存在しています。ちなみ安い時期でも1泊一番やすい部屋で3万円以上します。
ライトアップされている画像のひとつに、ブロードウェイマンションとありますが、これも上海の近代史では無視できない建築物です。
ここもまたヴィクター・サッスーン資本で建設されたアパートメントです。1934年の完成当時はアジアで最も高い高層建築でした。確か1950年代くらいまではアジアで一番高いビルだったと記憶しています。
このブロードウェイマンションの住民として米国、英国の上海の支配層が君臨したのは言うまでもないでしょう。
上海の街は後の上海事変でヨーロッパ支配から日本軍支配にシフトしていくのですが、一番最初に日本軍が接収した建造物が、このブロードウェイマンションでした。当時は海軍の情報部もここに置かれていたり、山本五十六が上海視察の際に立ち寄ったとも伝わっています。租界地が欧米から日本へと支配権が移る際の象徴的なビルですね。
また国共戦争の際にはこのビルで国民党と共産党の激戦もあり、途中米軍の接収も受けたりとなかなかの歴史を持っています。
このブロードウェイマンションも現在は上海で代表するホテルとなっています。
記憶を追っかけてさらっと書きましたが、少し書くだけでこの上海の外灘エリアはなかなか面白い歴史があり、日本支配の影響があったのも色濃く残っています。
終戦直後に李香蘭すなわち山口淑子が拘留されていた建物が残っていたり、昭和の匂いも多く感じます。
この地で李香蘭がパブで歌い、川島芳子が闊歩し、愛新覚羅溥儀が満洲帝国で即位する直前にこの地で匿われていたりと、思いにふける事ができる上海は最高です。
上海の租界地を歩いていると僕の頭の中に流れる曲は全部が李香蘭ですしねw
さてさて租界地区は外灘だけではなく少し奥に入ると、旧フランス租界が広がりそこも当時の邸宅などが立ち並びなかなか散策して楽しいエリアです。
今回の滞在中2度ほど足を運びましたが、ちょうど夜という事もあり、残念ながら撮影はできませんでしたが、当時フランス人が住んだ屋敷やアパートメントがリノベーションされて、CAFEやレストラン、バーなどに活用されてなかなか散策して面白いエリアです。
こんな上海で2019年11月30日に僕の主催のパーティーを開催します。
今年で8年目となる海外パーティーで例年80名から100名近くは参加されます。
興味がある方はぜひともコンタクトください。
パーティー会場はこちらです。
上海の夜景が一望できるルーフトップバーです。
もちろん季節柄もあるので室内で開催します。
紺野昌彦